「シルバーバーチの霊訓」をよく読んでくだされば分かるんですが、この中で人を何か依存状態に結びつけるようなものは少しも含まれていません。
(追記:ちょっと誤解を招きそうですから表現を変えてもう一言、『歪んだ依存関係→相互扶助』このような考え方が基本的論調になってます) シルバーバーチと言う名前さえ仮名であり、(誰かが他人の荷物を背負ってあげる事は出来ません)と言い、(自分が蒔いた種は自分で刈り取らないといけない)と言っています。 ここら辺は、ほとんど全部の宗教団体の教義と相反することであり、また一見、自立を標榜しているような団体であっても、中身を私なりに検討してみると自立に対して多額の金銭を要求していたり、難解な専門用語でエリート意識をくすぐっているものばかりに感じられます。 信者が何かに依存している状態にあると、こういう教えは非常に受け入れ難いことです。 私も最初、徹底的に反発しましたし、他の宗教団体の信者であっても同じことだろうと思います。 今まで何年、何十年とかけて情熱を注ぎ込んだ人間であればあるほど受け入れ難いことであるかもしれません。 今まで救世主と崇めていたような人物が詐欺師であったなんて実に受け入れ難いことです。 信者の為に、苦難を背負い込み、有難く美しい人生訓を述べ、誰でも出来そうな救われる教義を指し示し、誰でも受け入れていくと思われるグループのリーダーが・・・信じられないことです。 一つ例を挙げたいのですが、私が最も受け入れがたかった「シルバーバーチの霊訓」の箇所で、ある教会の牧師さんがキリスト教の回心の教義(今までの人生の非を認めキリスト教を信仰すれば罪はすべて赦される)について意見を求めた時の言葉です。 シル:「よくご存知のはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。 ”たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん”(マルコ 8.36) ”まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのものすべて汝らのものとならん”(マタイ 6.33) この文句はあなた方はよくご存知ですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。 ”神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし”(ガラテア 6.7)これもよくご存知でしょう。 神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の回心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的人生を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。”すみません”の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか。」 「シルバーバーチの霊訓」(五) 199ページ どうでしょう、これはキリスト教だけに当てはまり日本の多くの乱立している宗教団体の教義には当てはまらないことなのでしょうか。 (神仏との取引きは成立するのか、しないのかという宗教組織に横たわっている問題) 私は当時の自分の信仰にも当然当てはまるものだと捉えましたし、心にグサリと来ました。 自分が見たくなかった教義の本質の問題点をこうもストレートについてこられて非常に困惑しましたし、受け入れるのに数ヶ月かかりました。 なんとも見事なもんです。(笑) 御知らせ: 私事でこのブログの間がまた空きそうです。(笑) これで最後になるかも分かりませんが、本の紹介をしておきます。 「自由への脱出」 著者 マデリン・ランドー・トバイアス、ジャンジャ・ラリック/訳 南暁子・上牧弥生 書名 自由への脱出-カルトのすべてとマインドコントロールからの解放と回復 出版社 中央アート出版社 1998年発行 現在日本で宗教団体脱退後、信者はそれまでにかなりの金額を教団に捧げていますし、就労現場が教団関係だったりした場合があったり、今迄人間関係を疎遠にしていたり、誰からの助けもなく自立していかなくてはならないつらい現実が待っています。 精神的拠り所がなくなって大変な思いをするでしょうし、精神的ケアを行っているグループもほとんどないといった現状ですが、今から脱会、離反しようとしている方や思想改造プログラムの微妙な影響の抜けきらない人にとって参考となる書だと思います。 また、この本では、多種多様のカルト(歪んだ依存関係)の形態が例示されてあります。 (ニューエイジ哲学、心理療法、投機的ビジネス、聖書に基ずく信仰、武術から政治的な革新思想、一対一の人間関係など) # by momohimarayann | 2008-06-07 21:16
以前から、他力信仰、自力信仰と言う言葉を使ってきましたが、依存信仰と自立信仰という風に言い換えてみると判りやすいかもしれません。
依存症とは世間でよく見られます、タバコ、麻薬、対人関係、思想など等あらゆる場面で見かけ、大の大人であるにもかかわらず成長しきっていない大人が世間で問題を起こしてニュースになる事がしばしばあったりします。 これに対して、自立とは奥の深いもので精神的自立がもっとも大事なものではないかと私は思います。自分自身の良心と向き合って生きていくのは、きつく辛いが自分を成長させてくれる貴重な経験であるというのが、宗教団体を離れての実感です。 「依存と自立」 私は自分自身の属していた宗教団体や他の宗教団体の教義を私なりに検証してきましたが、どうしてもこの問題に行き着いてしまうんですよね。一見すると良い人生訓やありがたそうな信仰も根っこの部分に依存的な信仰の教義が隠されており、自分の罪の償いだとか現世の御利益信仰や解脱だとか言うわけの分からない物を、教祖及び教団にお金を払ったり、他の信者を入信させたり、特定の教団内部でしか通用しないような特殊な修法を修得することによって報酬が得られると言う一般人の普通の概念とかけ離れた依存状態に信者をもっていっています。 この依存状態は信者にとってある意味天国です。 自分にかかってくる社会的責任や義務と正面から向き合わずにすむんですからそりゃ居心地が良いに決まっています。代わりに教祖や教団が偽りの幸福に導いてくれると言う幻想の中で生活しているわけです。 (まあ、こんな事いっているから、批判者や離反者は悪魔や穢れたものと信者の側からは見えるんでしょうね) 一方、教祖及び教団幹部は決定的に信者に対して金銭や支配する対象物として依存しています。信者が離反していくのが最大の恐怖であり、そうさせない為に信者をより深い依存状態へともって行くようさまざまな恐怖や偽りの幸福感といったものを与えてからみついているわけで、まさに詐欺師、ペテン師、信頼強盗といった名称がふさわしい連中であり、こういった病的な精神気質を持ち合わせているような連中と歪んだ依存関係の持ちつ持たれつをしていては本当に人生の浪費です。一人でも多くの信者の方々が依存させるような矛盾を内包した教団や教義の実態に気づいて抜け出し、打算のない信頼できる自立的な人間関係を社会の中で見つけ出してほしいものです。 # by momohimarayann | 2008-06-02 01:31
全体主義って皆さん聞いたことがあるでしょうか?
よく聞くヒットラーのファシズムやスターリンの共産主義体制がこれに当てはまりますが、宗教団体と比較してみるとあまりにも重なることが多く、興味深く面白いのでフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より参照します。 国家→宗教団体、権力者や独裁者→教祖様、国民や個人→信者、このように置き換えてみると見事に当てはまります。 全体主義 概要 1.ユートピア的イデオロギーによって正当化されることが多い。 2.個人の放埓を制限し集団で力を合わせて危機を乗り切ろうという意図から産まれる。 3.しかし、批判勢力の口を封じるうちに、集団の中心人物・中心グループが集団を私物化して制御不能の状態に陥り、悲劇的結末を招く場合が多い。 4.解決策を示す事ではなく、資本家・左翼勢力(その国が資本主義国家か社会主義国家かによって異なる)・外国(人)など判り易い「国民の敵」「大衆の敵」を作って攻撃し、大衆に爽快感を味わわせる事によって支持を集める。 5.基本的に、善意を装って生まれる。 6.しばしば新時代への希望が喧伝される。 7.労働者階級等の貧困層、少産階級のように、政治に不満を持つ階層を取り込むポピュリズムによって生まれやすい。 8.貧困層が多数派の、普通選挙制度を採用する国で生まれやすい。 9.国民に主権者(国主)としての自覚がなく、どうすべきか考えず、公僕を指揮して問題解決するより、贔屓の英雄/独裁者の指揮下に入って助けてもらおうとして自ら奴隷に落ちる場合(自由からの逃走)に発生する。 10.軍事力によるクーデターだけではなく、ナチスのように政治パフォーマンスで人民の人気を得て合法的手続きを踏んで権力を掌握する場合も多い。 11.完全主義の人々が主導力となる。 12.大衆の好意を獲得しやすい。 13.異端を排除する度合いが、徐々にエスカレートしていく。 欠点 1.国家・民族など全体が個人に優先する主義であるが、最高決定権・主権を政府の中心にいる少数が占有するので、結局、一代か世襲かと言う点以外、絶対王政や貴族制と変わりなくなってしまう(寡頭制参照)。 2.国家の主人は国民ではなく少数権力者で国民は実質上、権力者の奴隷の状態になる。 3.政府の権力が、国民の人権を制限する事を許容するので、政府を批判した人間は収容所に送られたり、残虐な拷問に掛けられるのも絶対王政や貴族制と類似する。 4.批判者がいなくなるので権力は絶対的となり、腐敗する(ジョン・アクトンの言葉)。 5.権力者が清貧を貫いても、批判勢力を粛清した事により官僚制の弊害が発生する。 6.思想・文化等すべてをイデオロギー一色で塗りつぶしてしまうので、それらは自然的な発展が許されず、イデオロギー化のための手段として利用される。 7.イデオロギーに染まった人々が主導権を握るために、正当な主張を持っていたり、あるいは学術・芸術などに優秀な能力を有していても、体制に従わない者は粛清されていくため、有能な人材が居なくなる恐れがある。 8.国家の目指す方向が誤っていても、それを指摘する勢力は政府によって鎮圧される為に、国家の存立そのものが危うくなる事態に発展する。 9.個人の頭で自由に判断する能力を奪われてしまう。 10.政治・経済・文化・思想・国民等、すべてを国家が管理するため、国策として集約的に工業力を上げるなど効率が良い場合と、組織の硬直化を招いたり悪い場合が極端に現れる。計画経済が採用される場合が多く自由な経済活動が阻害され、市場原理が働かなくなる場合、地下経済が広がる場合が多い。 こういった類似点を指摘されても絶対に自分の宗教団体は、違うと思い込んでしまうのが盲信者と狂信者であり、自分から教義の矛盾点、教祖様と教団の実態を調べない限り、当然絶対バレる恐れはありません。 いや、どんなにあからさまな実態をコレデモカ×2と見せ付けられても、信じるものにすがりついて行ってしまうのが信者というものなのかもしれません。 自分が信じた者を否定し捨て去るのは、途方もない時間と苦痛と悲しみを要します。 # by momohimarayann | 2008-05-10 19:32
盲信と狂信は、それを信じていない他の人にからしてみると同じような反応を示すように見えます。
まるで「金太郎飴」のような反応を示すことから、信者及び教団関係者との対話は諦めざるおえなくなってしまいます。 こういった事柄は宗教や精神世界だけにとどまらず、マルチ商法、思想団体、性格改善セミナー、テレビ等のプロパガンダによる煽動にも利用され同様の反応を示している人たちと同じであるといってもいいのではないのでしょうか? 盲信と狂信の特徴を上げていってみましょう ①思考の停止 何と言ってもこれが最大の特徴でしょう。ある特定の思想に従属しているとその枠外にはみでることが出来なくなり、思考の堂々巡りのように他者から見えます。また、自らの思想を批判する精神の欠如により、矛盾を指摘されても理解不能となっていることに気づきません。より良いものを自分を通して見つけ出していこうとする精神の欠如といってもいいのではないでしょうか。 ②常識の欠如 盲信者にとって従事している思想、宗教が社会の枠組みを考えている場合はあまり表立って問題にはなりませんが、もし対立や破壊行為を煽動している場合は社会の大問題となります。 狂信者は、思想、宗教が社会の枠組みを考えている場合でもあまりにも行き過ぎた行為によって他者から異常者として映ります。 (要するに、盲信者狂信者の常識とは社会の常識ではなく、教団が捏造した常識のことを指します) 家族等にこういった者がいると普通味わなくてよい苦労がたえないであろうと思われます。周りの者の対応として寛容の心は良いのですが、安易な賛同はしないよう心がけて頂きたいと思います。 ③ヒエラルキー(ピラミッド型の段階的組織構造)による連帯感 盲信者と狂信者にも連帯感があります。一見仲間意識があるならそれも良いじゃないかと思われますが、そこには階層による差別意識が混じってます。自分より高いと認めている者には従順ですが、低い者には反転高圧的となり一般社会よりも厳しい縦社会のようになってます。 また、自分たちの組織以外の者に偏見があるとともに、特に批判者、退転者(辞めて行った者)には悪魔、不浄の者等の烙印が押されてしまい不潔なものを見るような目で見られることとなります。(笑) ④感受性の異常 これは周りの人間の立場に立ってみないと分からないのですが、信者以外の者からどう見ても詐欺師、ペテン師としか映らないよな胡散臭い人物が信者から見ると美しい救世主のように見えます。この一例だけをとって見てもいかに感覚がおかしくなっているか分かるのではないでしょうか。 そして、自分は正常で周りが異常であると信じきっている点も見逃せません。 ⑤権威(教祖、教団等)との一体感によるエリート意識 あっそうそう、大事なの忘れてました。 要するに自己の滅却ですね、信者は理性と良心を放棄し、権威(教祖、教団)の言われるがままに生活を送る事により信者自身の考え方だと思っていることが、実は権威(教祖、教団)の考え方と知らず知らずの内にすり替わっていきます。権威(教祖、教団)の価値観は一般人より優れていると頭から思い込むんでいますから、当然信者自身も他の一般人より優れていると考え始めます。 私自身についても言える事ですが、画一的であり鼻持ちならない考え方だったと回想します。 私が感じただけでもこれだけの特徴が挙げられます。 抜け出した者にとっては何とかこういったものを元いた教団の信者なりに伝えたいと願っているわけですが、なんせ悪魔、不浄の者ですから、侮蔑の目で見られてしまいまともな話し合いも出来ずちょっともどかしいという訳です。 # by momohimarayann | 2008-04-27 15:43
ある信仰の教義や人間に過ぎない教祖様に頼って物事を自分の頭で考えない習慣があると、人は盲目となり矛盾を直視出来ない為に狂ってきます。
また、教祖様の言うとうりに、教義の言うとうりに画一的に物事に当たっていく姿勢は偏狭な人間をつくりあげっていってしまいます。 盲信者や狂信者がどのようにして出来上がっていくのか宗教団体を抜け出してみてハッキリと分かります。 実際、私などは狂信者の一歩手前まで行っていたのではないかと思います。 盲信者 物事を自分の理性で考える習慣のある人は、「間違った考え方や習慣をしていた」と自覚すると切り替えることが出来ます。 反省をして今後そのような間違いが起こらないように自分を変えていくわけですが、宗教団体の考えを自分の考えとしているような人物にはこれがなかなか出来ません。 なんせ絶対唯一の教えとして受け入れているんですから。 どの宗教団体の教えを見ても一見良い人生訓や道徳論が述べてあり、ほとんど好い事ずくめです。 これは、一見するとです。 よく理解していくにつれて、だんだんとある矛盾点に突き当たります。 それは、他力本願の思想が教えの中に巧妙に隠されており、それが信者の中の利己心と結びつくようになっています。 これが決定的な矛盾点です。 (もし教団に属していたり、ある特定の修法によって人々が救われていくとするなら、人類の長~~~い歴史の中のある点で起こった特定の思想を学んだ地球の人口の数パーセント、数十パーセントの人たちだけが得をして、そんなことを知らないあとのほとんど大部分の者達は苦しみに晒されるわけです) 自己の欲求と教義が分かちがたく結びついているんですから、教義の矛盾点や教祖様の実態からどうしても信者は目を逸らして見ないようにしてしまいます。 自分が救われる為に、ひたすら美しい教祖様像や教義の教えだけを見つめて生活していくようになるわけです。 これが盲信者の誕生の瞬間です。 狂信者 これは、教義の矛盾点や教祖様の実態をある程度理解したり、うすうす本能的に感じている信者です。 ある程度長くその教団の中にいると大体の信者は矛盾点と実態に気づいていくものです。 理性を使って論理的に述べられないだけで、肌で感じているわけです。 また、良心のない人など世の中にいませんから、日々自分の良心が教団の矛盾点を指摘して来るわけです。 他人が矛盾点を指摘してくる分には攻撃として信者の目には映るわけですが、自分の良心からの指摘は苦しみとして反映されます。 これはくるしいですよ~~ 自らを家族や友人、地域、社会と隔絶させることと同義なんですから。 こうした苦しみから逃れるために益々信者は教祖様にすがりつこうとする訳です。 益々自分の頭で考えることをやめ、益々他力信仰にすがりつこうとするようになります。 得体の知れない人物と取引をしているといってもいいのではないでしょうか。 他者からの批判は攻撃と映りますから、このような信者に批判などしようものなら、それこそ社会の常識を超えた反撃を加えようとします。 自身がうすうす気づいている矛盾点や実態に触れられたくないわけです。 また、長い年月、教団にかかわればかかわるほど自己と教団の一体化が進み矛盾点を認めることは自己の否定と同義だととらえるようになってしまうわけです。 そうして、他者から狂信者の姿として映るようになります。 そりゃ矛盾のある教えを多額の金銭や信者の勧誘で買おうとするわけですから正気でやって行けるわけがありません。 # by momohimarayann | 2008-04-21 19:45
私が送ってきた宗教生活で、苦しんできたことは教義の矛盾についてです。
第一教義というものがないといけないということ自体がおかしいのですが、そんなものがないと「霊の救い」や「生きている意味の理解」が得られないとしたら神は完璧じゃないと言うことですし、全能でもなく、有限な存在と言うことになります。 そうじゃない事が本能的にわかっているから苦しむことになるんですね。 それに、言葉や書物で神や霊が理解出来るはずがありませんし、そんなちっちゃな存在であるはずがありません。 そのような理解が徐々に得られていくに従って、私は私自身の宗教生活に大いに疑問が沸いていました。 「救いはこの宗教にしかありません」などと他力的な事を聞かされていましたが、私の良心がそれを否定していたからです。 他の多くの宗教信者も良心のない人などいませんから、この苦しみを抱えていると私は思います。 また、この事は論旨からずれますが拝金主義や物質至上主義にも同じようにいえる事ではないかと思います。 こういう他力的な有害思想を「他者の意見を唯々諾々と受け入れるのは美徳」などと考えていては長い間苦しみにさらされることになります。 苦しみを自らもとめている人にとっては必要なことであっても、多くは助け合いの精神の中で学べる事ばかりです。 (不必要な苦しみを生み出さないためには検証作業がどうしても必要ですが、そこには個人を特定してその個人がとった行動に対して非難をする必要なんかありません。 個人がとった行動の結果を受け取る事の出来るのはその個人だけであるのは当然でありますから、悪因悪果、善因善果ということです) 私は行動から分析してその行動の本質には何があるのかと検証していく事が検証作業だと思っていますが、今の日本という国の宗教世界を見渡しただけでも、この検証作業というものがまったく抜け落ちているとしか言いようがありません。 お金儲けであったり、個人の名誉欲や権政欲追及の為にやってる宗教団体があまりにも多すぎる現実がそれを証明しています。 # by momohimarayann | 2008-02-03 11:04
⑥正しい教えは霊的生活と地上的生活の調和を説く。
霊能力中心の信仰をやってきた私にとっては耳が痛い言葉なんですが、これは「日常生活を良心の声に従って精一杯生きる」だという事で、どんな人間でも、どの時代にも通用する普遍的な教えだそうです。 霊能力中心の信仰をしている団体などは、要危険です。 なぜなら、霊能力というのは誰でも訓練次第で持てるもので、霊能力を持っているからといって高潔な人物であるとは限らないからです。 (能力を獲得しようとした人物が、今生じゅうに獲得できるとは限りません) 霊視、霊聴、予知、スピリチュアルヒーリング(心霊治療)に信仰が偏ってしまうと、どうしても日常生活がおろそかになってしまいます。 ⑦正しい教えは「お経を上げれば救われる」と説かない。 現代人は、私を含め殆どの人がいい訳を自分に言い聞かせながら自分の行為の正当化をしているんじゃないでしょうか。 そりゃあ競争社会ですから、罪の意識を自覚しながらも大なり小なり霊的真理に反したことをやってしまうもんです。 大自然や他人を傷つけても得をしたいという人も多いいでしょう。 このように摂理に反した場合、良心の呵責が沸き起こってきますが、それを感じずともすむように対抗策としてドグマ(独断的教義)が生まれたんですね。 (南無阿弥陀仏)(南妙法蓮華教)このようなフレーズを何度も唱えていれば、救いや罪の許しが与えられると説いている教えが、日本には古くからありますが、もう勘弁して下さいと言う他ありません。 お経を唱えて救われるなら、お経を録音したテープを一日中掛けていれば良いんじゃないでしょうか、一年中でも絶えずテープを流しながら生活して見て、救われるのかどうか実験してみれば良いと私は思うんです。 毎日お経を唱えているという人と話したことがありますが、お経を唱えている時だけはとても気分のいい状態で日常生活の鬱陶しいこと等忘れてしまえるそうです。 以前、私自身も他力信仰していた時期には分かりませんでしたが、それは、自分の良心の声を押さえることであり、他力信仰をしている者に共通にみられる症状なんです。 自分でやったことの責任転換や取引が出来ると信じているだけなんです。 もし、やっている人などおられましたらお経本来の意味を考えて日常生活に取り入れて見たら善いのではないでしょうか。 私はあまり頭など良くはありませんから、お経の意味を訳してある本しか読んだことありませんが、結構いいこと書いてあるなと思いました。 何で唱えていれば救われるという教義が造られたのかまったく分かりません。 いいことかかれてあるんですから、その本来の意味を捉えて日常生活の中で活用していけばいいだけじゃないのでしょうか。 # by momohimarayann | 2008-01-24 18:50
④正しい教えは恐怖心を与えない
スピリチュアリズムが明かした死後の生活をよく検討してみると、罪の結果を裁くのは自分自身の良心であると言われています。 神仏が裁くんではないんです、自分で自分を裁くんですから、嘘をついて誤魔化すことなんかできるはずがありません。 最も厳しい裁判官が自分であるということです。 これに対して、私の知る限りの宗教団体では、アメと鞭で信者を縛るための方便として、永遠の地獄だとか、狂い死にだとか、教団に背いた天罰だとかをでっち上げています。 それも自分たちに都合の悪い事に対して、信じられない苦しみに襲われるといった、なんとも卑怯でエゴイズムそのものといったドグマ(独断的教義)ばかりです。 こんな誰が確認できるわけではないことを検討することなしに受け入れていたらえらい事になります。 教団や教義の顔色を伺いながら生活するようになります。 間違った宗教団体は、「自分たちに従えば罪の許しや霊の救いを与えましょう」という在りもしないアメと、「自分たちに反抗するものは永遠の苦しみを与えましょう」という在りもしない鞭で信者をコントロールしている訳ですが、もしこんな権能が架空のものでなく本当にあったら世界は大混乱になります。 ⑤正しい教えは世襲制度を作らない これは誰もが歴史で習った封権社会とそっくです。 どんな立派な人物にも愚かな息子や娘が生まれている現実を真っ向から否定しているのではないでしょうか。 神仏である自分の子孫はこれまた神仏であるといっている訳です。 また、宗教家の子供はそれだけで努力も才能もなしに宗教家になれるという訳です。 # by momohimarayann | 2008-01-13 00:49
明けましておめでとうございます
それでは、なるべく停滞させないよう続けて行きたいと思います。 ②正しい教えは偶像を崇拝しない ご本尊、御札、曼荼羅こういったものに神仏が宿っていると偽り、高額な値段で商売をして、教団の運営資金稼ぎとなっています。(霊感商法とも言いますね) 私もこういった物を神仏が宿ったものとして拝んだりしてきましたが、自分の外側にありもしない(想像上の)神仏を造り出して、それに対して依存していたのでした。 本来、人間一人ひとりが神の分霊であると、一致してスピリチュアリズムでは言われています。 ですから、そんな物は必要ないどころか信者を宗教依存へと導いていく有害なものではないかと現在、私は考えています。 ③正しい教えは教祖を神格化しない 私は、他力信仰の最たるものがこれではないかと思っています。 教祖を神仏の生まれ変わりであると言ったり、神仏そのものであると言って信者に信仰させることは、教祖の言葉は神仏の声であり絶対の指導であると信者に強いていることと一緒です。 また、教祖にお金を払ったらば、それだけで救いがもたらされるといっている宗教団体がありますが、そんなことが許されるならば、どんな悪辣なこと、非道なこと、人間の倫理に反することをやってもお金があれば救われてしまうという矛盾を生み、人間的に最善を模索していく生活など全く無意味になるというわけです。 結局、どんな人生を過ごそうが、他力で救われていくんですから。 戦争、犯罪、誹謗などを自身の教団の為にしていると称している信者が世間の話題となることがありますが、それをしている信者は、最後には自身の教祖様が救ってくれると信じているからこそ、自身の良心の声を抑え、それだけのことが出来るわけです。 もしそれが真実ではなかったら、などとは恐ろしくて考えることも出来ないでしょう。 整合性のある霊的知識を理性と良心で判断して受け入れていけばこのような悲惨な現実が減っていくのではないかと私は思います。 # by momohimarayann | 2008-01-05 22:58
検証作業で思い出したのですが、私が大学卒業して就職したのがある思想団体の経営している職場でした。中に入ってみないと、そんなことは分からないようになっていまして、それから会議と称しては、連日のように勧誘をされていきました。なるほど、ある程度その思想にも一理あるとその当時は思いましたが、今思い返すとやり口が宗教団体と一緒で苦笑してしまいます。検証しようにも判断材料のない中で、深夜まで討論の形で問い詰められていき、私もその思想団体に入ることになりました。
(これは、宗教団体にいる二世、三世の信者が味あわされているやり口でしょう) それで、本当の意味で職場に入ったわけですが、中から見てみると異常なことがありすぎました。それをここで書いたら、論旨から外れていってしまいますので書きませんが、世間の常識から外れたことが当たり前のように行われていたように思います。そうこうしている内に心身がおかしくなっていき、ついには退職となりまして、普通の職場で働くようになった訳です。 ですが、思想的な繋がりはそれで終わったわけではなく、それから私自身が検証作業をするまで終わらなかったのです。私が図書館でその思想団体の歴史と矛盾点を調べてみると入る前に受けた説明とまるっきり違うという事が分かりまして、団体の支部長に掛け合ったのです。こちらが、物事の検証を済ませて話し合いをしてみると、彼らはただ上から言われいるとうりに動いているだけだということが分かり、2時間くらい激論を交わして何の反証を提示できない彼らにその場で別れを告げました。彼らとの人間的な繋がりは終わってはいませんが、思想的な嘘は受け入れることは出来ないということです。 ①正しい教えは神殿・大殿堂を決して造らない これは簡単ですね、彼らの意図することは人の心を建物の大きさや絢爛豪華な姿で圧倒したいからアホみたいにお金をかけているのでしょう。そのアホみたいに集まってきたお金を日頃言っている人助けに使えばどれほど多くの人を救えるのかを考えてみると、非常に勿体無い話です。人と宗教について語り合うのにそんな豪華な建物がないといけないものでしょうか。ただの民家や公共の建物でやれば良いだけの話ですし、路上でも良いでしょう。 そして、信者が自分の団体は正しいと思いこみ、他の宗教団体の異様な建物を批難している姿は、明らかに自己矛盾しています。自分で出来ていない事を人に言っても説得力がありません。少ない人数で宗教をやっている時は、金銭的苦労もなくその宗教の教義にのめり込むことが出来ますが、団体が大きくなるにしたがって神殿、大殿堂をたて金銭的苦労が信者の肩に覆いかぶさり、本来の信仰の生活が「金銭を貢ぐことが信仰である」というなんとも悲惨な状況を呈しています。 このような建物が一般人の目に異様に写るのは、その神殿、大殿堂の姿に偽善と矛盾を本能的に感じ取るからではないでしょうか。 # by momohimarayann | 2007-12-15 09:27
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